三日ほど前、娘から電話がかかってきた。
「側溝に落ちとった猫を拾ってきたんじゃけど、飼うてもええ?」
顔は見えないが、目がキラキラしているのがわかる。
私は「自分で世話できるならええぞ」
ということで、生後二週間程度の猫を飼うことになった。
目は見えるようだが、ミルクはまだ自分では飲めない。
家族みんなで世話をしている。
妻は夜中も起きて、ミルクを飲ませおしっこをさせている。
アロも不思議な生き物がきたと戸惑っているが、なめたり少しお腹を貸してあげたりして
徐々になれているようだ。
次の日、子どもたちとの電話で、名前はココナッツにしたとうれしそうに話してくれた。
もう、たまらなくかわいいというのが声でわかる。
写真もメールで送ってくれた。
子どもたちの笑顔がこちらにも伝わってくるので、私もうれしい気分になる。
そして私も猫に会うのをちょっと楽しみにしている。
そして今朝、着信1件、メール1件、見てみると妻からだった。
時刻は、1:48になっていた。
メールには「ココナッツが死んだ」と書かれていた。
朝、家に電話した。
妻が出た。泣いている。
娘に代わってもらった。
泣いていて、しゃべろうとしているが言葉にならない。
後ろで息子が泣いている声も聞こえる。
私は「みんな、よう頑張ったのー」
とだけ言って電話を切った。
本当にみんなよくがんばった。
マグカップに入るほどの小さなココナッツ。
小さな命を精一杯生きた。
5年生の娘、2年生の息子、5歳の息子も、固くなったココナッツをしっかり見届けた。
妻も相当ショックを受けているようだ。
家に来てたった三日間の命だったが、家族みんなに大切なことを教えてくれた。
人間も動物も、生まれてきて死んでいく。
この当たり前で最も大切なことをしっかり学んだと思う。
頭ではわかっている、でも理解しがたいことを、ココナッツは自分の体を使って教えてくれた。
ココナッツは私たち家族にその大切なことを教えるために生まれ、側溝に落ち、母親と離れ、
子どもたちと出会ったのかもしれない。
生まれてくるのも奇跡だが、出会うのも奇跡、育っていくのも奇跡である。
我々は奇跡の中の奇跡を生きている。
そのことをしっかり胸に刻んでおきたい。
子どもたちも今は辛いだろうが、それぞれ何かを感じ、学びとったに違いない。
ココナッツは体は死んでしまったが、私たち家族の心の中で生き続けるだろう。
素晴らしい三日間をありがとう。